116【巻頭言】「絶望の淵から希望の一歩へ」白井 進 氏

絶望の淵から希望の一歩へ

最近テレビのドラマやドキュメンタリーを見ることが多くなりました。一緒にいる長男も時々感動している様子。目が少しうるんでいる。見終わったあと、これを見てとてもよかったと感じるなら、次の仕事に打ち込む気力が与えられます。

聖書の中の物語は、当時の人々に、多くの感動を与えたドラマだったに違いありません。今それを読んで、同じように感動するなら、その言葉に込められている命が蘇ったことになると思います。

私にとっていままでの人生は、神に拾われ続けた歩みでした。

高校に入学した時、私はそれまで生きてきた姿に絶望し、心は闇に覆われていました。

小学生の時通った教会があり、友人が又誘ってくれ、礼拝に行きました。そこには光に照らされた世界がありました。しかし私の心には依然として暗い闇があり、あまりに対照的だったので、その場にいてよいのかととまどいました。

礼拝で読まれる聖書の言葉、解き明かす説教は私の心を鋭く突き刺し、固く閉ざしている心の扉を開けようと、光を注ぎ続けたのです。私は必死で抵抗し続けたのですが、「重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい」と優しく響く命の言葉によって、やがて心は動かされていきました。

抵抗は続きましたが、光は私の心を捉え、少しずつ扉が開いていきました。心を萎縮させていた闇は、光によって薄明かりになり、「あなたの今までの罪は全て主によって赦されたのですよ。光を信じて光の中を歩みなさい」と諭されたのでした。

取るに足りない、値打ちのない石を拾って、役立てようとしてくださる方に、本当にいいのですかと尋ねても、私はあなたを探していた、私のあとについて来なさい、と言われました。

その後、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」という言葉に触れ、私の命をあなたにあげよう、と言ってくださる方がおられると心から信じ、全てを主に委ねる決心をしたのでした。

それから57年が過ぎ、人生のいろんな嵐をくぐる中で、その時々に石が拾われて用いられる経験をしてきました。

聖書の言葉と共に、恩師が説教で繰り返し語った、「今は神のみ心はわからないが、後になって神は必ずこのことを通してみ心をなしてくださる。それを信じて祈って待ちなさい」という言葉は心に刻みつけられています。

福音によってもたらされる感動を一人ひとりに伝えたいと願っています。

クリスチャンセンター 神戸バイブル・ハウス理事

白井 進 氏