133【巻頭言】KBH副理事長 川邨 裕明 師「幸せと不幸」

クリスチャンセンター神戸バイブル・ハウス 副理事長
カトリック芦屋教会 主任司祭
川邨 裕明 師
マザー・テレサは、「私たちの人生は、愛するときに幸福に満たされる」と言います。また、アルフレッド・アドラーは、「幸せとは他者に貢献しているという感覚である」と語ります。誰かに愛情を注ぎ、つながっている時に人は幸せを感じ、誰かの役に立つという感覚が人生を豊かにするのです。
私たちの幸せは他者との関わりにあるのです。他者を愛すること、他者に貢献することだけでなく、誰かから好かれたり、受け入れられたり、気が付いてもらえたり、愛されたりすることで幸福感に浸ることもあります。目の前にいなくても、その人がいると思うだけで幸せになることもあります。
幸せと同じように、不幸もまた他者との関わりにあるのです。誰かから嫌われたり、仲間外れにされたり、無視されたり、憎まれたりすることで不幸のどん底に陥ったりします。目の前にいる人とうまくゆかないと悩み苦しむのです。
トルストイは『アンナ・カレーニナ』の冒頭で、「不幸はひとつひとつ違った顔をしている」と、幸せは似ているが不幸は人それぞれであると述べています。そこで連想したのが「生」と「死」の読み方です。「生」には様々な読み方があります。「人生(じんせい)」「一生(いっしょう)」「生まれる(うまれる)」「生きる(いきる)」「生える(はえる)」「生一本(きいっぽん)」などなど、多様です。その反対に「死」は音読みでも訓読みでも「し」としか読めません。そう考えると、沢山の読み方ができる「生」には、多様な顔を持つ不幸があり、「死」は幸せにつながっているのではないかと思えるのです。死は不幸からの解放という意味では幸せなことなのかもしれません。
マタイ福音書には、「心の貧しい人は幸いである、天の国はその人たちのものである。」(5:1)とイエスが山上から説いたとあります。イエスは、神とのつながりによって生きるときに幸せがあるのだと教えました。イエスは私たちを友(愛する者)と呼んでくださいました。本当の幸せは、神から贈られたひとり子イエスとの結びつきにあるのです。聖書を通して、本物の幸せにつながる道を見つけてゆきましょう。

