97号【巻頭言】「ウルリヒ・ルツ先生と影響史的解釈」:神田 健次氏

神戸バイブル・ハウス理事
神田 健次氏 関西学院大学名誉教授

10月13日、スイスのベルン大学名誉教授のウルリヒ・ルツ先生が逝去されました。心より哀悼の意を表します。享年81歳でした。

ルツ先生は、チューリヒ大学神学部で博士号・教授資格を得た後、1970年から72年まで国際基督教大学と青山学院大学で客員講師として教鞭をとられ、その後、1972年からドイツのゲッティンゲン大学で、さらに1980年からはスイス・ベルン大学で新約学の教授を務めました。ルツ先生に関しては、『EKK(プロテスタント・カトリック共同の聖書註解)新約聖書注解マタイによる福音書』(全4巻1985-2002年、邦訳:小河陽訳、教文館)によって、すでに日本でもその学問的業績がよく知られています。専門の新約聖書学の分野では、マタイ福音書注解の他、学位論文の『パウロの歴史理解』をはじめ数々の学術的著書を刊行され、また国際新約聖書学会の会長も歴任されるなど、国際的に著名な神学者でした。

筆者が、1971年4月に青山学院大学文学部神学科に三年編入した時、ルツ先生の新約聖書神学の講義を受講する機会がありました。初めて耳にするスイス人のドイツ語で高度な講義内容を展開するルツ先生と、その傍らで機関銃のような速度で通訳する佐竹明先生、お二人の先生による魅力的な講義は圧巻であり、心深く残っています。その後、約四半世紀後、ルツ先生と不思議な再会の時が訪れました。

関西学院大学神学部とベルン大学神学部が学部間協定を締結する直前に半年間、客員研究員としてベルン大学神学部で研究期間を過ごした折、ルツ先生と再会し、大変お世話になりました。一度、山内一郎先生ご夫妻がベルンに来られた時には、当時ベルン大学に留学中であった辻学ご夫妻や嶺重淑氏、そしてフォーレンヴァイダー学部長ご夫妻と共に、ルツ先生宅にお招きを受け、楽しいひとときを過ごした思い出は忘れがたいものです。

そして、2004年には半年間、ベルン大学神学部と関西学院大学神学部との学術交流協定に基づいて関学神学部の客員教授として講義を担当して下さり、学生たちにも大きな影響を与えられました。また、東京や九州などでも特別講演を引き受けられ、その講演集『マタイのイエス:山上の説教から受難物語へ』(関西学院大学神学部編、日本キリスト教団出版局、2005年)も出版されています。また、このように関係の深い先生に、2005年9月には関西学院大学より名誉学位が贈呈されました。

ルツ先生の世界最高水準のマタイ福音書註解書は、教会の説教準備においても大変有益ですが、筆者の研究的関心で特に興味深いのは、註解書でも適用されている「影響史的解釈」という方法です。『講演集』収録の「影響史的解釈学と聖書の教会的解釈」によれば、影響史は、カトリック教会の「伝統」に対して、プロテスタントの聖書解釈を新しい洞察へと導くだけでなく、さらに、プロテスタント教会がこれまで軽視しがちであった非言語的領域に対する新たな理解をもたらすものです。影響史は、「言葉が聖書テキスト解釈の唯一の媒体ではなく、絵画、演劇、舞踏、音楽なども、聖書のテキストへの応答であり」、人間の信仰心全体に関わる聖書解釈を取り戻す手助けと言えるでしょう。

このようなルツ先生の提唱する影響史的解釈は、当時、非欧米圏、特にアジアや日本のキリスト教美術を、福音の文化的受肉化、インカルチュレーションの課題として考えていた筆者にとって、重要な示唆を与えてくれるものでありました。神戸ゆかりの小磯良平、田中忠雄、堀江勝氏などの画家のキリスト美術も、このような聖書解釈の豊かな地平において新たな意味と楽しみをもたらしてくれるのではないでしょうか。