113号【巻頭言】「今、その破れ口に立つ」:大嶋 博道 師

クリスチャンセンター 神戸バイブル・ハウス理事
日本フリーメソジスト
神戸ひよどり台教会牧師
大嶋 博道 師

「・・・主に選ばれた人モーセは、破れを担って御前に立ち、彼らを滅ぼそうとする主の怒りをなだめた。」(詩編106:23)

私たちの人生は、時に「破れる」ことがある

人は誰もが順風満帆、万事順調の人生を期待し、望みながら生きています。しかし、思いがけず艱難辛苦が襲ってきて、人生に穴が空いたり、破れたりすることがあります。思い通りにならないのが私たちの人生です。家族や自分自身が人生の破れを経験する時があり、また他人の破れを目の当たりに見ることもあります。

「破れ口」に立った聖書の人々

「破れ口(ペレツ)」という言葉が聖書に出てきます。(エゼキエル書22:30,詩編106:23)「破れ口」とは、城壁の一部が崩れたり、穴が空いているところ、すなわち「破損箇所」のことです。外敵は、何とかして城壁に穴を開け、それを押し広げて、中へ入ろうとするのですから、小さな破れ口でも、すぐに修理をしなければ、町はあっという間に敵の侵入により滅んでしまいます。城壁の場合は、破れ口を修復して塞げば良いわけですが、私たち人間の「破れ口」はどうしたら塞ぐことができるのでしょうか。結論から言えば、誰かが命がけでその「破れ口」に立ち続けることなのです。聖書的には、「破れ口に立つ」とは、神と人との間に立って、その裂け目で神に執り成すことを意味します。聖書の中から「破れ口に立った」模範的な人物を取り上げてみましょう。

信仰の父アブラハム―

彼は、甥のロト家族が住むソドムとゴモラの人々が罪ゆえに神に滅ぼされることを見過ごすことができず、「正しい人が10人でも居れば滅ぼさないで欲しい」と、罪深い民の「破れ口」に立って執り成したのです。(創世記18:16~33参照)

出エジプトの指導者モーセ―

彼は、イスラエルの民が偶像の神である金の子牛を造り、神の激しい怒りに触れて滅ぼされようとした時、神の前に立ちはだかり、「自分の命と引き替えに民を赦して欲しい」と懇願し、執り成したのです。(出エジプト32~33章参照)

現代の「破れ口」に立つキリスト者として

21世紀を生きる私たちの世界にも様々な「破れ」があります。身近かなところでは、家庭や職場や学校の破れ、あるいは「教会の破れ」もあるでしょう。世界に目を向ければ、戦争や紛争、飢餓や貧困、地球環境の汚染、今も感染拡大を続けるコロナ禍・・・。今こそ、私たちは「破れ口」に立って、命がけの執り成しの祈りを捧げましょう。祈りを意味するヘブル語の「パーラル」は、「仲裁する、間に入る」とも訳せます。まさに、問題だらけの間に入って、身を犠牲にして執り成すことなのです。同時に、「破れ口」に立つとは、問題や課題の真っ只中に身を置くこと、惨禍のただ中に命がけで立つということでもあります。人類の罪を背負って十字架の「破れ口」に立たれた主に倣って、私たちも破れ口に立ち続ける者とされましょう。聖霊の助けによって!