107号【編集後記】「想起すること」ダビデ 林 和広司祭
「想起すること」
暑い夏がやって来ました。子供たちは夏休みに入り、虫捕り網を片手に走り回っております。毎年、夏が来るごとに見る光景です。そして、もう一つの光景があります。それは広島、長崎における痛ましい原爆投下の出来事を想起し、その犠牲者の方々の死を悼み、それぞれの地で平和を願い祈る人々の姿です。
76年前、多くの人たちが行き交い、新しい1日が始まろうとした朝、人類史上、前例のない原子力爆弾が投下され、多くの人の日常が、いのちが、一瞬のうちに奪われました。目には見えない人間の内にある敵意、憎しみが目に見える形で、罪のない無防備な人々の日常を、いのちを奪いました。神の被造物である人間のいのち、自然が傷を負いました。その後、「平和」、「いのち」に関する議論が進められているものの、わたしたちの世界は今もなお核戦争の脅威のうちにあります。
詩篇作者は言います、「主は平和を語られるその民に、忠実な人たちに』(85.9)と。わたしたちは、神が愛をもって創造されたいのち、世界が破壊された出来事を想起すると同時に、その神が破壊された世界の傷が癒やされ、一人ひとりのいのちが大切にされることを望んでおられることを想起する必要があります。
ここでの想起とは単に思い出すということではなく、行動を含みます。
神の被造物であるわたしたちが日常生活の中で協働して、その神の想いを映し出すのです。わたしたちは悲惨な出来事によって失われたいのちを悼み、祈る人、他者のいのちを大切に想う人、傷を負った世界の癒し人になるようにと日々、招かれています。神の器として生きることができますように。
(日本聖公会 明石聖マリア・マグダレン教会 牧師)