KBH所蔵 貴重本紹介 その8「詩篇・箴言」湯浅 半月
今回は、玄関ロビーのケースGの中段右端に展示されている湯浅 半月(ゆあさ はんげつ)(1858~1943)訳の「詩篇」、「箴言」を紹介する。
湯浅は明治から昭和戦中期にかけて活動した詩人,聖書学者。本名は吉郎(よしお)。半月は雅号。同郷の新島 襄の影響を受けて兄とともにキリスト教の洗礼を受けた。明治10年(1877年)に新島が京都に創設した同志社普通科に入学し、8年後に同校神学科を卒業する。卒業時の明治18年旧約聖書の「ヨシュア記」に題材を求め、五七調の荘重な古典的風格を備えた宗教詩「十二の石塚」を刊行。明治詩壇最初の個人詩集となった。その後、アメリカに留学してオーバリン大学・イェール大学で旧約聖書および古典ヘブライ語について学び、博士号を修めた。明治24年(1891年)に帰国後、同志社で旧約聖書について講義した。明治34年(1901年)京都帝国大学法科大学講師兼平安教会講師となる。1902アメリカに再留学し、図書館学を修めた。
さらに1921~22年の渡米後、雑誌「劇」を創刊。代表的詩集に「半月集」明治35年(1902刊行)があり、草創期の新体詩興隆に寄与した。明治37年(1904年)に京都府立図書館館長に就任した。1907(明治40)年「箴言講義」、1923(大正12)年「雅歌」、1927(昭和2)年「箴言」、1937年(昭和12)「伝道之書・雅歌」、1939年(昭和14)「イザヤ書」等旧約各書を訳出した。1936(昭和11)年「ヨブ記」、1937(昭和12)年「詩篇」、1939(昭和14)年「イザヤ書」、「第二イザヤ書」、総てヘブライ語からの直訳である。湯浅は多才な人で、書画の鑑定もよくし、波多野流平家琵琶の奏者でもあった。
彼は熱心なクリスチャンであったが、一方では祇園の芸者などには「粋」な男性として人気があった。そのためか、「大阪朝日新聞」の京都地方版は、大正5年(1916年)の彼の京都図書館長辞任翌日の版で、「半月君は京都の名物男であったが惜しい事をした、泣くものは祇園あたりにもあるやなしや……」と皮肉交じりの解説を残している。
彼の「雅歌」の訳の一部をとりあげてみよう。「ああ美(うる)はしや我佳(わがと)もよ、パロの車の馬ならで、何にたとへん其方(そなた)をば。瞼(ほお)に鏈索(くさり)を乗れ、頸(くび)に球玉(たま)を陳(つら)ねて、麗(うる)はしや。我は其方(そなた)に白銀(しらかね)の星をつけたる純金(じゅんきん)の鏈索(くさり)を造り、あたへなん(1:9~11)」。ヘブライ語原典からの訳であるが、なんと粋な訳ではないか。
2021.6(展示委員 池田憲廣)