KBH所蔵 貴重本紹介 その9「エラスムス校訂ギリシア語ラテン語対訳 新約聖書」
今回は玄関ロビーのケースE陳列の「エラスムス校訂ギリシア語〈ラテン語対訳〉新約聖書(Novum Instrumentum)」を紹介する。
本書はデジデリウス・エラスムス(Desiderius Erasmus, 1466~1536)により1516年に出版された。出版当時、西欧で初めて学術的に校訂されたギリシア語新約聖書が世に出たと評判になった。新約聖書のオリジナル言語であるギリシア語を、当時のカトリック教会言語、学術言語であるラテン語で訳したという点で学識者の間で高く評価され、人文主義者エラスムスの評価を決定付けることになった。
だが、エラスムスはこの聖書の出版において、むしろ優れたラテン語新約聖書を世に出そうとラテン語版の校訂に力を入れていた。実際、エラスムスが底本として用いたギリシア語テキストは正文批判の立場から見れば、低レベルのものであった。即ちエラスムスが入手し、翻訳に用いたギリシア語新約聖書は東ローマ帝国の聖職者によって西欧にもたらされたもの(ビザンチン写本)であり、テキストとしてはせいぜい12世紀にさかのぼるのがやっとのものであった。これに比べれば、ヴルガタと呼ばれたヒエロニムス訳のラテン語訳新約聖書のギリシア語底本は古代のギリシア語版から翻訳されており、その痕跡を随所に残している。さらにエラスムスは「ヨハネの黙示録」の完全なギリシア語版を入手できなかったため、その一部を手元のラテン語版を見て自分でギリシア語に翻訳した。つまりエラスムスにとって本書に添付したギリシア語テキストの重要性はその程度のものだったのである。
エラスムスの思いと裏腹に、自信を持ってまとめたラテン語テキストより低レベルなギリシア語テキストのほうが広く受け入れられ、1521年にルターがドイツ語訳聖書を著したときに、1519年の第二版を底本として用いたこともよく知られている。しかし、ルターとエラスムスは明らかに相反する思想をもっていた。エラスムスはカトリック教会内で古代から議論が続けられてきた自由意志の問題についての著作「自由意志論(De lebero Arbitrio)1524」を執筆した。自由意志の問題はルター自身の信仰の根幹に係わるものであったため、ルターはこれを看過できず、対抗する形で「奴隷意志論(De servo Arbitrio)1525」を発表。エラスムスはさらにそれに対する「反論(Hyperaspistes)1526)」を著しているが、結局これを最後にエラスムスは泥沼化したルター問題から手を引いている。
(展示委員 池田憲廣)