101号【巻頭言】父と子と聖霊祭や神は愛:前田 万葉 師

神戸バイブル・ハウス理事
カトリック枢機卿 大阪大司教区大司教
前田 万葉 師

私は最近、「父はアルコール依存症で家族(母、僕、妹)に暴言を吐いたり殴ったりします。でも、父が怖くて母は僕達をかばってくれず、母の愛を感じられません。妹と本気で話し合うことも、なかなかありません。親の愛情を知らない僕達は、本当の愛というものを知りたいのです」との質問を受けました。若者のいじめや自殺、犯罪などが気になり、次のような返事をしました。

旧約聖書に、「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎内の子を憐れまずにいられようか。たとえ、女たちが忘れても私はあなたを忘れない」(イザヤ49・15)とあります。

新約聖書には、「愛する人たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれた者であり、神を知っているからです。愛さない者は神を知りません。神は愛だからです。神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちの内に現されました。愛する人たち、神がこのように私たちを愛されたのですから、私たちも互いに愛し合うべきです」(Ⅰヨハネの手紙4・7~11)ともあります。

私の体験から、私の家庭も決して模範的ではありませんでした。「決してこのような父親にはならないぞ。優しい父親になるぞ」とか、しかしまた「尊敬できるところもあるな」との希望を持つことも出来ました。「父から母親を守ろう。そのために、暴力ではなく、何か子として父親に気づかせる方法はないか」とか、「母親は子どもを守りたいはず、父親も暴力をふるった後、妻のことや、子どものことを心配しているはず」などと、信頼と希望を持っていました。きっと謝りたくても謝れないとか、謝るチャンスがないのかもしれません。

私の家庭は、カトリックでしたから、子どもが父親に「祈りをしましょう!」と言って、家庭祭壇の前に座り、「お父さん先上げ(先唱)をして」というと、父親は夕の祈りを始めたものです。夫婦げんかで気まずい雰囲気を察しての、子どもの気転でした。祈りが始まると、いつの間にか父が先唱、母と子たちが合唱して何事もなかったかのようになりました。

聖書に、「私たちは苦難をも誇りとしています。苦難が忍耐を生み、忍耐が品格(鍛錬)を、品格が希望を生むことを知っているからです。この希望が失望に終わることはありません。私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5・3~5)とある通りです。また、キリスト誕生の個所に、「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』これは、『神は私たちと共におられる』という意味である。」(マタイ1・23)ともあります。全能・永遠の神が共にいてくださるのです。何の不安がありましょうか。安心そのものです。